「品川の西野映画評」が半端なく面白かった。

最近、youtubeで、品庄の品川とキングコング西野が対談(2編に分かれ、1編は西野映画、もう1編は、彼らが東野とともに出演したアメトークについて、という構成となっている)していたのを見た。

尤も、「面白かった」というには、あまりに「個別的」(他の人は「共感しない」だろう、ということ。尤も常にそんなものを求めてコンテンツを見ている訳でもないが)だという感覚なのだが、その実感とそう感じた体験自体がまた面白い、という「入れ子構造」になっていたのだ。

どのようなことか?

 

西野映画や彼の作品というのは見ていないし、恐らく今後も(絶対とは言い切れないが)興味は持たないと思うが、その理由が明確になった(言語化できた)ということが一つ。

もう一つは、「品川-西野という(先輩後輩の)関係性」の中で、西野が、普段よく見せている「エッジの利いたクリエイター」の「スカした」スタンスではなく、珍しく(多作で成功もし、当然彼なりの批評眼もある「クリエイターとしての」先輩に対する)「しおらしい、謙虚な」顔を見せていた意外性からであった。

 

自分は実はお笑い好き(本題から逸れるので今回は踏み込まない。いずれ別の機会に詳述)なのだが、マニアックな「芸人品川好き」である。

西野は、考え方は面白いと思うが、「(芸人やクリエイター以前に)人間的に興味を持てない」。

しかしそれが「なぜか?」を、品川との今回の対談で「掴めた」のである。

 

品川は、西野映画の「1」「2」(西野は「2」という呼び方はしないで欲しいらしいが)のあらすじを、実に巧みにわかりやすく説明し、その「面白さの核心」を披露してくれた。

結論から言うと、いずれも「西野自身の物語(私小説)」を変奏したもの、ということになる。

 

自分が思い出したのは、大好きで、青年時代から繰り返し読み返してきた、小林秀雄×岡潔の対談「人間の建設」の一節。

小林秀雄が、「感動」というものの独特の在り方を岡に説いて見せるのだが、そのエピソードが印象的なのだ。

彼が、亡くなった知り合いの骨董屋の息子から、素人道楽で詠んでいた俳句集に序文を書くよう頼まれるのだが、どれもこれも素人の駄句に過ぎなかったところ、「小林秀雄に」という詞書の入った、ナマコに関する句があるのを発見した。

それは、小林が、羨んで仕方ないのに出し惜しんでいた骨董屋の李朝の徳利を、押し取って行ってしまった夜に詠まれたものだったのである。

これに小林は、「芭蕉とかなんとかいったって、おもしろいということになると、このほうが、駄句だけれど、私には面白いのですよ」と言うのである。

 

それでハタと思い至った。

品川は、「西野が好き」で、人間性も歩みも知っているからこそ、それを楽しめる。

そうでない人々には、しばしば言われるように、「自己啓発」臭強く、物語としての「深度」の不足した映画に映る、というのは納得の行くところだ。

結局、自分もまた「品川が好きだから」、彼の「西野映画評」も楽しめる、という構図に他ならない(品川に対しても屈折した好みで、元はベタな「芸人品川嫌い(おしゃべりクソ野郎)」に過ぎなかったが、とある番組から品川の面白さに気づき、彼の監督作品の映画も1本見て、面白さに感嘆した。昔からのガチヲタとは違うにせよ「品川好き」とは自認していいと思っている)

 

西野については、彼の「芸人現役時代」については、ほぼ知らないため何とも言いようがない。

一方、「興味が持てない」のは、「自己啓発家」が勝ち過ぎてしまっており、クリエイターとしては、物語世界が狭くて浅い。

「自分の話しか出来ない」のは、「教養がない」せいじゃないの?と思ってしまう。

(それは彼の相方梶原にも言えるが)

 

「ガチの西野好きの人」にとっては、単に「西野の作った物語世界」だけでなく、「西野の成功物語に、自らも(クラファンやオンラインサロンなどで)参画」することで、その「面白さの分け前」に与ることができる。

「自己の面白さを切り売り」するビジネスモデルという点では、今も「芸人と変わらない」と見ることも出来よう。笑

 

「興味が持てない」のは「絶対ではない」というのは、西野がどこかで、「シフトチェンジ(成長?)」して、「自分以外の物語を、豊富にかつ深度を持って生産」できる「真のクリエイター」になり得る可能性は、全然あり得ると思っているからだ。

彼の不幸は、良くも悪くも「器用多才」で「手八丁口八丁」過ぎてしまうこと。

「プペリズム」のようなものに「立て籠っている」限り、正直「安心して無関心でいられる」のである。