前回は【実体経済編】として、自分の影響を受けた高橋亀吉について述べた。
今回は理論経済学についてである。
以前にも述べたが、学生時代も既存の経済学の理論や、経済学史にはある程度目を通したものの、「腹落ち」するものがなかった。
また、興味はあったものの(高橋の指し示した実体経済分析には具体的関心があった一方で)、理論経済学に関しては、「何を、どのように探究したいのか?」も明確ではなかった。
自分がそのヒントを得たのは、(むしろ実務である)インターンシップであり、後に「企業家のビジネスモデル」に焦点を当て、現在に至る。
ネタ明かしかつ専門的になるので、ここでは詳細に踏み込まないが、どのような軌跡を辿ったかについて少しだけ述べておきたい。
テーマ設定自体は、比較的早い段階に定式化されたものの、「どうやって?」というのが見当がつかなかった。
既存の経済学のモデリングでは全然役立たないのでは?と思っていたからである。
恐らく、時代というか、経済学各理論の細分化された発展において、道具立てが急速に揃ったということが幸いしている。
実際、AI絡みや、また(同垢別ブログで示唆した)数学的絡み、さらには自然言語処理的な着想も加わっている。
それ以前に、自分自身で準備した理論的フレームワークが非常に多くあり、それら道具立ては「最後の仕上げの肉付け」に使うといった位置づけになるのだが。
理論的には、上述の枠組みは、「ミクロ経済学」のほうに収まっていく。
自分が経済学史を吟味して気付いたのは、ミクロ経済学の哲学的基盤というのは、重要部分は20世紀前半の「限界革命」以来殆ど更新されてない、ということだ。
(日本の高校政治経済テキストも含め、既存のミクロ経済学のメインの理論枠組みは、サミュエルソンの「新古典派総合」とヒックスのIS-LMモデルをカバーすれば事足りると捉えている。これらの「退屈さ・役立たなさ」を痛感・疑問視した人は少なくなかろう。あとは細分化された方法論的進化は各種見られるが、経済学の主流を変えるには至っていない)
また急いで付け加えるべきは、自身の特殊なリバタリアンとしての特性である。
ハイエクは経済学面では名高いが、彼のモデルにも納得感はなかった。
(リバタリアンは政治哲学面に及ぶわけだが、ここでは逸れるので措いておく)
そこで、初めて既存の「金融理論」(マクロ経済学およびマネタリズム)との絡みの言及に至る。
「あれも×、これも×」というが、「じゃあ自分はどんなモデルならいいのか?そもそも自分で独自の理論モデリングなんか可能なのか?」という話になる。
「限界革命」の話は、経済学史上では繰り返し出てくるわけだが、「彼らの理論モデルがどのような意味があるのか?」は、学生時代は一向に理解できず、分かろうともしなかった。
が、「自分の理論モデル(の仮説)」を持つと、見方が一挙に変わってくる。
(当然だが、そこには数学的確信が不可欠となる)
理論経済学をやると、「均衡、均衡ってうるせーな」と思うわけだが、その核心を会得できるようになったのだ。
自分は、言わば「逆・出羽守」と自認している。笑
が、日本の経済学者は、「自分の理論モデルを作る」という習慣というか、それがそもそもどのような営みなのか?ということがピンと来ていないのではないだろうか。
「経済現象を、数理モデルで表現する」
というのは、かなり特異な作業である。
コツがわかると非常に楽しくなってドンドン自分でやりたくなってくるのだが、「独自の経済学と数学的センスの結合」というのが不可欠になると考えられる。
日本では、マクロ経済学者やマネタリスト、ないしファイナンス論者だらけになるのは、実務・政策ニーズからくるのが大きいという以外に、「教育的に量産しやすいから」という「経済学(教育)界の大人の事情」も左右しているのではなかろうか。
何が言いたいかというと、別に、日本でも世界的な理論経済学者は全然育てられるということなのだが、現状では、そうした研究・教育基盤には十分になっていない。
それは、日本ではそうしたトレーニングを受けた経済学者がおらず、「既存のモデルに当てはめた説明や、計量・解析・シミュレーションを行う」ことだけが目的のカリキュラムに堕しているからである。
(独創性が不可なのではなく、生まれ得るが、主流を占めにくいという、学術知識流通・政治構造の問題がある。そこには世代の問題も大きいのだが)
自分には、ミクロとマクロの経済学を完全統合する独自のプログラムを持っている。
まだ完成していないのだが、理論と実証の統合体としてのイメージに向かって進行中である。
そこでは、自分なりの金融モデルを基点(基体)に立ち上げる訳だが、これが非常に手間のかかる作業なのだ。
理論経済学はとてつもなく楽しい。
だが、これは自分が哲学→数学をやったという独自の特色ありきゆえに気づけた視点ではないかという気がしてならないのだ。