「株主の与える時間」の本質

(長文注意)

現代世界の経済社会は、「資本主義」を基調とする。

「資本主義」という用語は、多面的かつ多義的で、恐らく、経済学者・社会学者・歴史学者によっても、ある程度共通項はあっても、各論的には定義が多様となることが推定される。

が、今回は、「資本主義」の定義が主題ではない(まだそこまで大上段のテーマは扱えない)。

 


「資本主義」下の「時間」の本質について扱いたい、ということなのだ。

これは、「自分(筆者)自身が、(今後も含めて)どんな時間を生きたいか?」という「哲学」部分も混じり合っている、と考えてもらっていい。

 


「資本主義」の前提にあるのは、「株式市場」の成立であって、「株式資本による企業体運営(経営)」により、企業活動=経済活動が成り立つ、ということである。

「株式会社」というのは、近世・近代(資本主義)の偉大な発明であり、それにより、能力と潜在性のある企業家・企業が、その時々または地域・国家のルールに基づきつつも、「自力だけでは容易に集められない数量の」おカネを集めやすくし、スピーディかつ円滑な企業活動を可能にしてくれる。

 


しかし、その場合の、「株式市場から調達されたおカネ」というのは、「企業家や企業の財布や口座から出てきた金」ではない。

株式市場に参加している株主のそれである。

当然だが、その金(「株主資本」)というのは、調達した企業家や企業が「100%自由に遣っていいカネ」を意味しない。

投資された「株主資本」は、その資本を遣って「(その会社の器で)収益を稼いでもらう」目的が大前提となっている。

 


上記は、高校政治経済辺りでも習う、経済の常識だ。

 


筆者が考えたいのは、「会社、特に株式会社における仕事の時間」の本質的な意味合いなのだ。

会社員であれば、「収益を出せ、利益率を高めろ、効率を上げろ」といったお題目、あるいはスローガンを浴びせられるのは普通だ。

 


問いたいのは、それは「何のためか」、「どこからきて、どこに向かうのか」、その上で、「働いている人たちは、何・どこに向かって働いているのか」ということだ。

「仕事の時間」というのは、それらの本質的な問いに対する答えから規定される、と考えていい筈である。

 


自分が学生時代に、とある大手の販売チェーン(本部直営店)のアルバイトをしていた時、月末に棚卸の作業があるのだが、マニュアルが整備されていて、上役の子が、「棚卸の意義」というのをマニュアルに沿って説明してくれたことがある。

どんな文言を使っていたかは記憶がないが、「会計上、財務諸表の正確な数値を整備する上で不可欠」と、「株主『様』のため」である、という説明を聞いて、当時は感心するより、「俺は見たことのない『株主』のためなんぞに働いてねーし」と反感を持った覚えがある。

が、当然だが、「正確」なのは、そのマニュアルの説明のほうである。

当時の自分は、「棚卸」という自分の仕事の意味合いを理解できる水準にはなかった、というべきだろう。

 


その店は既に閉店してしまったのだが、「売上、売上」と結構うるさい店だった。

自分は「意識低い系」だったので、「うっせーな、こっちはバイト代さえもらえりゃいいんだよ。あとはそれなりに楽しく働ければ」程度の意識しかない。

という訳で、企業活動全体の中に、自らの仕事を位置付けるといった視点は、働いている間は持てなかったし、持とうとも思わなかった。

そこで就職しようとも、キャリアアップを目指そうとも思わなかったから、その必要性もなかったとみてよい。

 


やや長いエピソード引用となったが、「仕事」の、「誰のため(目的)」と、「内容」、その「遂行者(オペレーター)」が、見事に分かれている、という事象を紹介したかったのだ。

業務整備された組織というのは、「誰の、何のため」ということが、「遂行者」には必ずしも理解できなくとも、「やり方の教育」さえ成されていれば回っていくものだ。

日本も厳しい社会経済環境になったものの、そうした認識のサラリーマンも、依然として存在するだろう。

 


ゼロ年代ホリエモンブームの時期には、「会社は誰のものか?」という社会的問題提起がなされ、幅広く議論がなされた。

「株式会社の時間」というのは、100%、「株主の利益のため」に回っている(少なくとも本来、そうでなければならぬ)。

法制度的なルール面、資本主義システムの原理面からは、そのように回答せざるを得ない。

だが、当時の日本社会では、「会社はステークホルダー全体のもの」といった回答をしたがる人々も少なからずいた。

これは、戦後日本が「官製(お上、官僚のつくった)通商産業国家」だったことと、技術者圧倒的優位の経営構造(ものづくり=2次産業)、有力企業やグループによる株式持ち合いのもたれ合い構造といった、日本独特の不透明な資本・経営・執行構造から来るものだった、と捉えられる。

そして、今なお、その残滓はそこここに遺っており、時に大小の様々なスキャンダルの形で噴出する。

 


次に、企業活動の「利益」というのは、どこから来ているのか?ということだ。

「産業」というのは、「自然」と直接接触する「1次産業」(農林水産業・鉱業)から出発した。

その場合、「利益」の大元は、「自然」である。

「自然」から持ってきた「原料」(の生産)が、企業活動の源泉となっている。

 


しかし現代の文明というのは、基本的には「3次産業(サービス業)」が基調であり、なおかつ21世紀は、「マネーの情報化」により、「おカネそのものの流動性が極大化」された社会、と捉えることが出来る。

そうなった場合、「利益」はどこから来るようになるのか?ということだ。

「おカネそのものの流動性が極大化」する一方で、「先進国」では生活が豊かで便利になり、「不足しているもの」はなくなった。

テクノロジーを駆使して、(今までになかった)「新しいサービス」を「付加価値」として提供することが、「利益」の源泉になった社会となっている。

そこでは、そうした新たな「サービス」そのものも、新陳代謝の激しい流動性の高さを特色としている。

 


戦後日本では、「会社に骨を埋めて」といった価値観が可能だった時代や社会が存在しただろうが、現代文明は変質している。

「仕事」を果たす先の「永続性」(少なくとも、「自分一個人が生きる、または働く間」)の保障がないのである。

その前提の上で、「仕事」とか、「働き方」の選択や構想を行う必要がある。

 


原理面の説明が随分長くなってしまった。

「資本の投下された時間」では、「株主の利益」のために働かなくてはならない。

それは「資本主義」の経済社会では自明だ。

問題は、それに対して、自分がどう処したいのか?ということだ。

 


「仕事」には、多義的な意味合いがある。

ここでは仮に、「その時々の、中期的な人生プランに積み重ねるキャリア」の意味合いに即して考える。

「人生の時間」と関わってくるからだ。

(個人=働き手にとっての)「仕事」は、業務内容そのものが最終的には規定するものの、環境面では「サービス内容×経営体」が決め手となるのではないか、と考える。

「利益の伸び(率)、その可能性」という点では、「サービス(内容)」と、それを運営する「企業体」の、「その先の潜在性=成長性」に規定される、という意味である。

 


就職先・転職先を探すとき、様々な条件を顧慮して仕事、あるいは会社を探すだろうが、上記は重要条件となることは言うまでもない。

その見極めがつき、(その時々の)自分と合っている会社・人・組織とマッチしフィットした人は、幸福かつ順調なキャリアや人生を歩めるが、そうでない人は苦しんだり、また「不法環境」「不良な会社や人(諸ハラスメント等)」で傷つきながら歩むことになる筈だ。

 


「収益が上がる」というのは、「市場、社会、人々からニーズのある」確かな証であり、また自分たちの会社が存在し、仕事をしている証拠ということである。

(会計操作や不法行為をしていない限り)

 


一般論が随分と長くなったが、どうしても必要な部分だった。

自分にとって重要なのは、「自分自身の、知=時間のハンドリング(の自由)」と、「自分にとってのお金の位置づけ」という点だった。

 


自分が苦しんだのは、「お金」というものに対して、全くといっていいほど「個人的な興味」が持てなかったことだ。

自分個人として、あるいは生活や人生面で、「お金がたくさんあったら」という願望とか欲求は、どうしても持てない、あるいは無縁だった。

一方で、「数値として」、即ち「知的関心」としては別だ。

じわじわと少しずつ時間をかけて勉強しながらではあるが、ずーーっと「知的対象としては」「お金」というものに興味を持ち続けてきたし、今なおそうだ。

そして、そうした関心や探究があるからこそ、今こうした記事を書いてもいる。

 


突破口になったのは、自分としての事業構想面が固まってきてからのことだ。

そこでは、「自分個人として」ではなく、「事業面として」「おカネ=資本」の必要性がどうしても生じるからだ。

それで、ようやく、「自分の時間」を、「未来に向かって」「企投」できるようになった。

 


そして次が、「自分の時間のハンドリングの自由」ということだ。

では、ここから先、事業進行に当たって、どういう時間にすべきか?ということである。

そこでようやく、冒頭からの話題に立ち戻る。

「株主の利益のための時間」にしたいか・できるか?ということだ。

答えは「否」である。時期・フェーズによって状況は変わる、という条件付きではあるが。

 


なぜか。

自分の資本は、「知」しかないということと、そこにいかなる「ヒモ」もついてはならない、という大原則が出発点となるからだ。

目先の収益のためのハイエナにたかられていては、「仕事」そのものが成り立たなくなる。

事業面では、先だって大掛かりな資本を要しない、ということもあるが。

 


もう一つは、少なくとも冒頭(スタートアップ)段階では、「投資家」に説明したい・できる何もないな、ということだ。

展望やビジョンがない、というのでなく、向こうには理解できないだろう、ということだ。

彼らが知的に理解できない、ということもそうだし、コンセプトが理解できない(あるいは合わない)という面もある。

 

自分はそもそも、「プレゼン」という営みそのものが、さほど好きではない。

正確に言うと、その「プレゼンという思想」(の横柄さ)が嫌いなのだ。

プレゼンそのものは、自分でやるのも、人のを見るのも別に嫌いという訳ではない。

現代社会では、大なり小なり不可欠な仕事であることも間違いない。

 


特に腹立たしいのは、「ビジコン(ピッチ)」というメディアとか、「1分でやりたいことを説明せよ」とかの「思想」である。

「ビジコン」というものには、自分も大きくではないが、微かに関与したこともある。

それゆえ、馴染みはある。

「なんで貴様らごときのために、こっちのアイデアを、しかも凝縮して説明しないと行けねーんだよ?しかも理解できないでしょ」という訳だ。

気づいたのは、自分の事業は、「大衆投資家」向けでも「大衆」向けでもないな、ということなのだ。

自分の事業には、(大衆に向けた)プレゼンも、ビジコンも不要だし、合わないのである。

 


と言って、無論、今後も全く「投資」とか「投資家」が不要だろう、とは見ていない。

「部分ファイナンス」においては、つまり、自分の事業を部分的に切り出して、「共同運営」的な枠組みでは投資を仰ぐこともあろう、とは考えている。

しかし、それも相当先の話だ。

「資本」そのものが必要というよりは、「外部の目」、ウォッチやモニタリングが必要になるフェーズでは、率先してそれを求めに行くだろう。

 

自分の事業は、完全に0から考えたものだからよくわかるのだが、「事業がカネを稼いでくれる」ようになるまでには、恐ろしく時間がかかる。

人間の子どものようなもので、育てるのにともかく手間がかかるのだ。

 

日本のVC市場も、米国ほどではないが、成熟してきた面もある。

(もっとも、本場米国のほうが「融解」しつつある状況なのかもしれないが)

投資家にも色々な種類があって、「シード」期から出資してくれるエンジェル投資家のような存在もこの10年ほどで見られるようになった。

だから、皆が皆、全く信用できない存在、と見ている訳でもない。

 

「出資・投資」というのは、「企業家と、(資本を通じた)投資家との対話・コミュニケーション」と考えている。

が、共通目的は、様々なきれいごとで飾ったとしても、本質は、「当該事業で最終的に収益を上げること」となる。

「相手への信用の有無」というより、「0から生み出し、育て上げた事業モデルに、途中から参加され云々されることへの不快感」と整理できるだろう。

 

VC市場の成熟に伴い、「投資されてはみたけれど」とでもいうべき、「起業家側から見た、VC投資受け入れの失敗学」とでもいうべきものも、散見されるようになった。

起業家の側からは、「上場」にばかり尻を叩かれる投資家圧力への違和感があったという。

VC市場が貧弱・未発達の状況では、投資家の側に、「ゴール=上場」しか設定できなかったとしてもやむなかったろうな、というのが個人的な感想となる。

それで苦労した起業家たちは気の毒だったとは思うが。

 

自分は、ずっと昔、学生時代の時点で、「投資家」という存在への感触というものを概ね掴んでいたから、「まず、簡単に付き合うようにはならないだろうな」との直観を得ていた。

「失敗」というものに、少しずつ寛容度を高めつつある日本社会のようだが、現状では、「信用」は禁物だろう。

 

「知的活動の自由」は、「時間の自由」と深い結合関係にある。

「おカネ」は、必ずしも、「自分の時間」を「自由」にするとは限らない。

「資本」というのは、自分の活動に一定のタガを嵌めることを意味する。

一方で、市場に対して付加価値を生み出しに行くとき、大小必ず必要にはなってくる。

が、その時の「時間の自由」との兼ね合いは、「自分だけで」決めに行くべきものだ。

 

100%、というより1000%、いや10000%かあるいはそれ以上、「自分の知的生産物を、完全に市場にオープン化できる」その保証を自ら行える体制がつくられて初めて、投資家との対話を、真剣に考えるようになるだろう。

だが、たぶん当分は要らない。事業規模面で考えても、何らかの、どこかしらとのコラボ程度の枠組みで十分と言えるからだ。

か、「自分のほうから投資・出資する」のが先か、あるいは何らかのファンド創出から始まるだろうか。

 

 

時間の「意味」

えらく哲学的なタイトルになってしまったが、論じたいのは純粋な「実務的」(?)な内容だ。

所定の労働や作業的な中身であると、「時給換算で〇〇円」と弾き出されるのはリーマン的習性の一つかもしれない。
 
自分の場合、そうした換算をすることがほぼ、ない(あるいはできないことが多い)。
「お金ではない」という価値観を持っているのでは無論なく、単にお金が発生してない「趣味(かっこよく言えば『クリエイティブ』?)」の領域に留まるからだ。
無論、ゆくゆくは、という期待ないし見通しがあるから続けているし続けてこれている、に過ぎないが。
 
「お金」が発生しているほうが、むしろ「ラク」な面もあると考えられる部分もある。
良くも悪くも、「社会的責任」が発生しているからだ。
内容如何にかかわらず、請け負っている内容、その「責任」は四の五の言わずに果たさねばならない。
「(やらねばならぬことを)考える余地がない」というのは、キツイ一方で、「考えなくても良い」という点ではむしろラクである。
 
「人は自由の刑に処せられている」というのは、確かサルトルだったと思うが、印象に残る言葉だ。
自分の場合は、サルトルの受け止めとは恐らくやや異なる感覚で、「自由」というものの「濃度」をぎゅっと凝縮した形で委ねられている、と感じている。
これも「実存哲学」的な言い方になるかもしれないが、「今」どう過ごすかという「時間」は、「未来」へと「投射」(かっこよく言うと「企投」)されるものだ。
 
「自由」のハンドリングを得ている、と自らが実感するのは、「現在」-「未来」の「双方の操作性」を、手にしている(=その能力がある、またはそう感じる)からだ。
しかし、そうであればあるほど、「現在の時間を、どこにどう遣う?」を極限まで考え抜く必要が生ずる。
「現在-未来の双方の操作性」と一口に言っても、これがまた容易ならぬものだ。
 
「〇〇のエキスパートになる!!」という、明確な「専門家(プロフェッショナル)」になることを目標とした場合は、その対象領域やテーマが既に明確な場合は、「トコトン突き詰める」ことを追求しやすい面もある。
しかし、それがまだ見えてなかったり、または特定テーマのエキスパートを目指せず、「領域横断型のジェネラリスト」型であると、カバー範囲が複数に拡散し、必然的に「自分が目指すべき像、何を成すべきか」も、自ずと拡散していく傾向が生じる。
すると、「今なすべき課題やその目標」と、「目指すべき像や将来」両方が、拡散しぼやけたものとなり、フワフワと手応えの感じにくいものとなっていくからだ。
(仕事やポジションを決める権限が自分にない場合は、猶更である)
 
したがって、その場合、次の困難は、「複数の可能な未来のシミュレーション」に随った「未来」に即して「現在(取り組むべき課題と目標)」を定める、ということだ。
VUCAという言葉が用いられるようになったが、「不確実性」というものが非常に強まった世界では、「未来のシミュレーション」が容易ではなかったり、想定外のリスクが生じた場合、全く無に帰してしまう場合も少なくない。
 
「自由(な時間)」の難しさというのは、まさに「投資」の難しさであると言っていいと思う。
自分としては、「ある未来Aの実現にベット(あるいは『企投』)」するつもりで、「現在取り組むべき課題と目標B」を設定したが、想定外の事態Cが生じたため、取り組んできたBは殆どムダになってしまう(あるいは途中で中断するなど)、という「リスク」が常に往々にして存在するからだ。
人が世に生きる限りは、そうしたリスクから逃れて生きることは不可能である。
 
が、「リスク」を怖れて、現在何もしない、やらない、ということも(不可能ではないが)また極端な選択肢となる。
完全な無為=0となってしまい、何も遺らなくなってしまうからだ。
そのために、リスクを恐れず「決断=行動」が求められるわけだ。
 
「『今』何をやるべきか?」という判断、その戦略を構築する部分では、「選択と集中」だけでなく、同時に「リスク分散」、そのための「ポートフォリオ分散」(の力学)が求められることになる。
今自分が実感している、「自由」の本質というのは、上述のような部分だ。
 
能力やリソースのスペックが高まれば、それに随って「自由」の範囲やレベルも上がっていくものだろうか?
それとも次第に「守るもの」も増えて、むしろ「不自由」になっていくのか?
これからの「旅」はそれを確かめに行く行程となろう。
 

自分だったら出稼ぎに行ったか?

円安で、日本国内での労働価値低下が鮮明になる中で、「海外出稼ぎ」に出るクレバーな選択肢が注目されている。特にオーストラリアが人気というのは最近よく見かける。

純粋に「稼ぐ」という観点だけで考えれば、確実かつ賢いやり方だ。

 

しかし、自分が学生で、一定期間、海外滞在余地があったとしたら、その手の「出稼ぎ」に行っただろうか?と仮想してみると、恐らくだが、「否」という回答になる。

ポイントは、留学とか起業、あるいは借金返済など、「多少時間の自由を犠牲にしても、短期に効率的に金を作る必要があるか?」に置く筈だ。

または、就職前で、就活を念頭に置くなら、「就職の代わりに出稼ぎ」という手立てはあり得たかもしれない。その場合は、「その後の海外生活も含みに入れる」形を取るだろう。

こちらは、今後の生活でも、ある程度形を変えた選択肢としては現れるだろう。

 

が、学生時代に自分だったら出稼ぎに行ったか?という問いが恐らく「否」というのは、勉強、特に「本を読む」時間を最優先にしていたからだ。

まあ「本での勉強」というのは、Z世代とはあからさまに世代間ギャップのある学習手段ではあるのだが。

ただ、実際に自分は、そうした判断を、(積極的または消極的に)学生時代に下したことがあった。

100万程度作れば、留学のチャンス自体はあったが、考えた末に見送った、という経験があったのだ。

 

「資本」は何においても不可欠なツールではあるが、一方で、「必要なツールの一つに過ぎない」という面もある。

「短期・効率的に稼ぐ」というツールが目に見える手段としてあっても、それが「落ちているカネ」かどうか?というのは、当然だが、その状況下の「機会費用」の計算次第である。

自分はそもそも、「頭を空にして、カネを稼ぐためだけの労働に専念する」というのが苦手なのだ。

 

ただ逆に、学生時代ではなく、「今、仕事がなければ」現実的な選択肢の一つとして考慮出来るしすべきだ。

今ならば、当時のように勉強最優先でなく、「時間の交換可能性」がある。

知的ストックが出来てからなら、「金を稼ぐ」選択肢というのが、様々な時間の費用対効果(タイパ)の中で俎上に載せてもよくなる。

 

「少年老い易く学成り難し」という言葉は、自分が最も大切にしている言葉で、その時の学問が、今の自分に文字通り直結している。

「カネがない時に、カネしか稼いでないと、自分にはカネしか残らない」

カネは、後から稼いでも別に遅くはない。

逆説的かもしれないが、自由が確立されてない時こそ、金よりは知的ストック(頭と知識・情報)形成を優先すべきで、知的ストックが出来てから初めて自由に選ぶべきなのだ。

 

無論、マイナスから始まっていたら、そもそも四の五の言う余地なく稼ぐしかなかったのも間違いなかったろうが。

 

「特化しろ」という横柄な思想には従わない

現代ではマーケティングを超えて、人生論・社会論の一般論として、「特化しろ、絞り込め、強みを作れ」ということが広く言われ、一種の規範性、というか能力の有力な判断基準の一つとして流通するようになった観がある。

自分にとっても、それらは学生時代から繰り返し言われてきた言葉だ。

実際、自分の強みというのはある程度自己理解したうえで、それを伸ばしてきて今がある。

 

自分の場合の特色は、とにかく「ジェネラリスト型」であり、関心も能力も総合的で広範である。

「狭いテーマに向かって掘っていく」というのは苦手というのではないが、それで「強みを作る」というのには違和感を持ち続けてきた。

 

無論、何かの強みがなければ、世で生き残っていけないのは事実だから、大人になってからも、その時々に応じて、必要とされる能力を身に付けはしてくる。

ただ、それでどれかの能力・スキルの「スペシャリスト」になろうとは思わなかったし、そういう途は「違うな」と思い、現実的な選択肢としては取り除いていった。

 

不快さをぼんやり感じていたのは、「特化しろ」というメッセージが、正論めいて見えはしたものの、どうも自分のような「ジェネラリスト型」の特質を軽視ないし無視しているように見えてならなかったからだ。

あと、当たり前のことを連呼されすぎ、次第に「うるせーな、言われなくても知ってるわ!」としつこいお説教のように煩くなってくる。

ホリエモンが「多動力」を著す前の時代)

 

もう一つは、「本当に『特化しろ』というのは正しいのか?」というあまり他の人では抱かないであろう疑問が、モヤモヤと自分の心の内にわだかまっていった、ということだ。

確かに、世のあらゆるビジネス・産業というのは「特化する」ことによって生き残ってきたものしかない、といっても過言ではない。

その歴史的現実も、また既存のマーケティング手法自体も無論認めてはいる。

「しかし、本当にそれだけなのか?」ということなのだ。

 

自分の心の中にわだかまっていったモヤモヤというのは、今となっては、極めて本質的な疑問だった。

「今ある強みにもとづくSWOT分析」を起点に展開するマーケティングの理論や方法というのは、(部分的には正しかったり共通するところがあっても)そのフレーミングや立ち位置というのが、自分自身の目指す方向性と全く異なっていたからなのだ。

つまり、「既存のマーケティング理論(の限界性)」に対する、本質的な疑問が生じていたのだった。

 

とはいっても、「じゃあどうする・どうしたい?一体俺は何を目指している?」という代替案や理論がすぐ準備できる筈もないし、第一、どんなポジションなのかすらその時点では分からない。

しかし、今来た地点・そしてこれから目指す地平は、やはりかなりの特異性を持っていると思わざるを得ない。

といって、「汎用性が利かない」ことは全然なくて、その手の理論化・方法論化が、これまでは整備されてこなかった、というに過ぎないとも言える。

 

先ほど触れた「不快感」の正体というのは、

・「貴様に俺や俺のアイデアの何が分かんだよ?」という無用の容喙や無理解への反発

・「無意味な特化」は、「結果的に時間を無駄にする」(=変に実行に移すと失敗や消耗によるロスが大きくなる)だろうという仮説を持っていたこと

だったと整理し得る。

 

「強み」は当然あるのだが、それは「特化しろ」という横柄極まりない、既存のマーケティング理論のメッセージに随って形成してきたものではない、ということなのだ。

自分が気づいた、既存のマーケティング理論の弱点というのは、「今ある組織やリソース」を活用することにはつながっても、「クリエイティビティ(創造性)」の積極的推進力としては働きにくくなる陥穽がある、ということだったのだ。

 

マーケティング論については、引き続き、また改めて論じていきたい。

 

Tokyo Startup Gateway2023素晴らしかった!

日曜午後なので、配信tubeを適当に観流すか、程度の腹積もりだったが、あまりに粒揃いプレゼンだったので、殆ど全てのピッチから目を離せず見切ってしまった。

TSGは、ずっと昔、10年ほど前に、1度会場でリアルで見に行ったことがあり、とても面白かったので記憶に残っていた。

会場で見に行くのは刺激的だが結構疲れた覚えがあったものの、配信は気楽に、家で勉強しながら見ることが出来た。

その当時もそうだったのだが、「プランとしてがっちりしているか」というよりは、「人々が強く応援したいかどうか?」を重視しているというのがビジプラコンテストとしての特色として印象深かった。

それだけでなく、今回は特に、「東京都主催」というサービスの公共性の高さ・都市政策的親近性というものも感じさせたものだ。

 

長年見てこなかったのに、今年観ようと決めたのは、表示されていたSNS広告で、ファイナリストの8/10人が「女性」ということで、「これは絶対面白いコンテストだ!」という強い直感がはたらき、大当たりだったわけだ。

また、10年近く前に見た時と比して、皆プレゼンスキルが抜群に上がっているし、各自の披露するプロジェクトの完成度も極めて高く、突っ込みどころが薄く、審査員もむしろ審査段階でも「応援」というスタンスが見られたのも興味深かった(それに比すると、セミファイナリストは、時間の短さもさることながら、やはりプレゼンスキルでも格段に落ちると思われた)

 

性関連のプロジェクトが多いのも特色だったのも、日本社会への風穴を予感させ、とても心強さを感じた(最優秀賞は、小児性犯罪防止のサービスだった)。

学生時代からビジコンは何度も何個も見てきたが、随分洗練されたものだ。

自分自身も学生時代に大小関わったものもあったが、プランがあまりに稚拙・未熟でずーっと「単なる自己満ではないのか??」という疑念から逃れられず、拭い難い虚しさもあったので、感慨深いものもある。

日本社会も起業環境も、一部は成熟を見せつつある、ということだろう。

 

一部やりたいことが近い人やヒントになるプランもあったので、今後のアプローチに直接間接に生かせるかもしれない。

 

 

 

「お金・マネー」の位置づけ

「お金」(筆者は、「お金」「おカネ」「マネー」の表記を、かなりの程度意味区分して用いているが、今回はその定義には踏み込まない)は大事だ。

場合によっては、「命」そのものを意味するか、その代りぐらいに。

 

「『お金』とどうやって付き合っていきたいか?」は、経済生活を行う現代人の恐らく全てにとって、必要不可欠な命題となったのではないか。

少なくとも、「完全自給自足」「原始的物々交換」だけで経済生活を行える人々は、世界でも圧倒的少数派だろう。

(どこに、どれくらいの人々が、どのような生活をしているかは、詳しく調べてない。少々羨ましく、また興味あるところでもあるが)

筆者にとっても、「お金の問題」は例外ではない。

 

ただ、「どう付き合っていきたいか?」という命題への解は、全く明快ではない。

人は、死後までおカネを持って行くことはできない。

なおかつ、人は(自死やそれに類する方法を選ばない限り)「死期・臨終」のタイミングを正確な精度で予想することは殆ど不可能だ。

それは確かだ。

が、人は「死の直前」までお金が必要だ。また、子孫家族、あるいは会社法人などを持つ人は、その人たちにどのように財産資産を遺すかを、当然考えておかねばならぬ。

さらに、「お金」は単体で動くものではない。(物理的な人間存在も含めて)強固な「人間社会の制度」である以上、各種「法手続き」の煩雑さも避けられない。

なおかつ、現代は、超高齢化で仕事を定年退職後も、極めて長く、数十年という時間を過ごさなくてはならなくなった。

そうすると、単に「お金」だけでなく、「病気と健康」「時間の過ごし方」「人間・社会関係の作り方」までセットで準備しなくてはならないという、難解な連立方程式に直面させられているのだ。

 

「お金」は、「何が買えるか」と結びついての「どのような生活が可能か?」という「生き方・ライフスタイル」だけでなく、「どのような死に際を迎えたいか?」という「死に方」をデザインするものでもあると考えている。

(正確には、「死に方」は「生き方」の延長線上、その「終点」に位置している)

 

筆者も、「お金」との付き合い方は、多少は考えたり、実践した部分も少なくない。

が、現状は微々たるものと見るべきだろう。

「お金」には、従来より(知的な)「興味関心」はあるが、「執着」はさほどない。

(「真っ当に生活したい」との欲求はあるものの)何より「見栄」がない。

しかし、他方で「還元したい」としても「どうやって?」もまた不足している。そこが現状だろう。

 

マネーを取り巻く技術(FinTec等)も、恐ろしいスピードで進化を遂げており、追い付くどころか、理解するのも難しい側面もまた強い。

しかし、「お金」の主導権は、今のところ、AIなどではなく、圧倒的に「人間」自身が握っているとみるべきだろう。

そこでは繰り返される、そしていまや「何でもアリ」となった詐欺や利権仕事の巨額さに、「お金」について真面目に考えることの虚しさを感じたことも一度や二度ではない。

 

しかし他方でまた、そうした「詐欺師」たちのワザにも知的な関心を寄せもする、そうしたアンビバレンスにある。

真似をしようなどという馬鹿なことは考えないが、彼らは必ず、「ルール・制度」や「技術」等のスキをうまく突いており、その点で非常に「社会勉強」にもなるし、「自己防衛」の手立てを考える素材になるのだ。

 

「塀の上を走る」という言葉がある。

昔からあるのかもしれないが、筆者はジャーナリストの田原総一朗の本で知った。

「特別なネタを追うには、法とすれすれのラインを追いかけねば取ることはできない」という(テレビマン出身の田原ならではの)、危うくなおかつスリリングなスタンスと言えるだろう。

筆者は、別にコンプライアンスヲタクではないが、わざわざ「危ない橋を渡ろう」とも思わない。

そこまでの「カネの執着」がないのだ。「落ちているカネ」を見つけても、「どうしても拾いに行こう」と思うほどの「カネ好き」ではないのだと思う。

 

だから、「マネー投資」も「少しは」面白いが、本源的興味ではない。

いろいろな細かいテクニックや整備された知識体系はあっても、所詮は「マネー増殖術」以上ではない、と捉えている。

 

最終的な知的関心は、経済学的な関心なのだ。(金融論も当然含まれるが)

「マネー投資」の退屈さには、「皆がやってるのと同じことをしても面白みがない」というのも当然ある。

だから、まだ誰も行ってないような研究・実践を経済学において行うことを夢見ている訳だ。

 

こう余裕を持って考えられるようになったこと自体が、ある程度「安全地帯」にはいることを意味しているのかもしれない。

「が、その先は?」を慎重に吟味している。

「お金・マネー」というのは、必要不可欠のものであるが、「利権」「権力」と同じで、「不用意に手に入れる」ことが危険を伴う、「諸刃の剣」でもある。

「財産・資産」もまた、「自分や周囲を守る」ものであると同時に、維持には大小のコストもかかる。

「取り扱い方」を心得ていなくてはならないが、その経験・知識というだけでなく、「心構え・哲学」がまだ不十分なのだ。

 

「アブナイ橋」を渡ろうと思わないのは、そうした「哲学」的な側面も強い。

「後ろ暗い」ところがあると、あとから何らかの「善」「義」を行おうとしたときに、わだかまりなく行えないだろう。

「アブナイ橋」というのは、社会的・金銭的な「リスク」だけでなく、「心理的コスト」にもなり得る。

これもまた、シンプルだが一つの「マネー哲学」だろう。

 

「お金・マネー」は、自分を「大きく」してくれる。

VRでは、便利な「身体拡張」という用語が生まれたが、「お金・マネー」というのは、そのための伝統的な社会ツールとしてあるのだ。

もう一つの哲学として筆者が持っているのが、「操作可能性」ということだ。

「操作可能」な範囲でしか、自分の「お金」は扱わない。

「自己理解・管理不可能な相場」のお金を持ってしまうと、その刃が自分に向かってきて身を滅ぼしてしまう。

それは、「額の大小」ではないのだ。

 

「操作可能性」というのは、仮想通貨の時代には、少々アナログな発想かもしれない。が、「自分の知識・技術・財産の成長」を適切に加味したうえで生活を送りたい、という思想なのだ。

「分相応」と言い換えてしまえば、これまた地味・退屈であるかもしれない。

「破滅」せず、「そこそこ・それなりの・自分なりの」面白さを追求する、自分なりの「持続可能な」マネー哲学なのだ。