円安で、日本国内での労働価値低下が鮮明になる中で、「海外出稼ぎ」に出るクレバーな選択肢が注目されている。特にオーストラリアが人気というのは最近よく見かける。
純粋に「稼ぐ」という観点だけで考えれば、確実かつ賢いやり方だ。
しかし、自分が学生で、一定期間、海外滞在余地があったとしたら、その手の「出稼ぎ」に行っただろうか?と仮想してみると、恐らくだが、「否」という回答になる。
ポイントは、留学とか起業、あるいは借金返済など、「多少時間の自由を犠牲にしても、短期に効率的に金を作る必要があるか?」に置く筈だ。
または、就職前で、就活を念頭に置くなら、「就職の代わりに出稼ぎ」という手立てはあり得たかもしれない。その場合は、「その後の海外生活も含みに入れる」形を取るだろう。
こちらは、今後の生活でも、ある程度形を変えた選択肢としては現れるだろう。
が、学生時代に自分だったら出稼ぎに行ったか?という問いが恐らく「否」というのは、勉強、特に「本を読む」時間を最優先にしていたからだ。
まあ「本での勉強」というのは、Z世代とはあからさまに世代間ギャップのある学習手段ではあるのだが。
ただ、実際に自分は、そうした判断を、(積極的または消極的に)学生時代に下したことがあった。
100万程度作れば、留学のチャンス自体はあったが、考えた末に見送った、という経験があったのだ。
「資本」は何においても不可欠なツールではあるが、一方で、「必要なツールの一つに過ぎない」という面もある。
「短期・効率的に稼ぐ」というツールが目に見える手段としてあっても、それが「落ちているカネ」かどうか?というのは、当然だが、その状況下の「機会費用」の計算次第である。
自分はそもそも、「頭を空にして、カネを稼ぐためだけの労働に専念する」というのが苦手なのだ。
ただ逆に、学生時代ではなく、「今、仕事がなければ」現実的な選択肢の一つとして考慮出来るしすべきだ。
今ならば、当時のように勉強最優先でなく、「時間の交換可能性」がある。
知的ストックが出来てからなら、「金を稼ぐ」選択肢というのが、様々な時間の費用対効果(タイパ)の中で俎上に載せてもよくなる。
「少年老い易く学成り難し」という言葉は、自分が最も大切にしている言葉で、その時の学問が、今の自分に文字通り直結している。
「カネがない時に、カネしか稼いでないと、自分にはカネしか残らない」
カネは、後から稼いでも別に遅くはない。
逆説的かもしれないが、自由が確立されてない時こそ、金よりは知的ストック(頭と知識・情報)形成を優先すべきで、知的ストックが出来てから初めて自由に選ぶべきなのだ。
無論、マイナスから始まっていたら、そもそも四の五の言う余地なく稼ぐしかなかったのも間違いなかったろうが。