「株主の与える時間」の本質

(長文注意)

現代世界の経済社会は、「資本主義」を基調とする。

「資本主義」という用語は、多面的かつ多義的で、恐らく、経済学者・社会学者・歴史学者によっても、ある程度共通項はあっても、各論的には定義が多様となることが推定される。

が、今回は、「資本主義」の定義が主題ではない(まだそこまで大上段のテーマは扱えない)。

 


「資本主義」下の「時間」の本質について扱いたい、ということなのだ。

これは、「自分(筆者)自身が、(今後も含めて)どんな時間を生きたいか?」という「哲学」部分も混じり合っている、と考えてもらっていい。

 


「資本主義」の前提にあるのは、「株式市場」の成立であって、「株式資本による企業体運営(経営)」により、企業活動=経済活動が成り立つ、ということである。

「株式会社」というのは、近世・近代(資本主義)の偉大な発明であり、それにより、能力と潜在性のある企業家・企業が、その時々または地域・国家のルールに基づきつつも、「自力だけでは容易に集められない数量の」おカネを集めやすくし、スピーディかつ円滑な企業活動を可能にしてくれる。

 


しかし、その場合の、「株式市場から調達されたおカネ」というのは、「企業家や企業の財布や口座から出てきた金」ではない。

株式市場に参加している株主のそれである。

当然だが、その金(「株主資本」)というのは、調達した企業家や企業が「100%自由に遣っていいカネ」を意味しない。

投資された「株主資本」は、その資本を遣って「(その会社の器で)収益を稼いでもらう」目的が大前提となっている。

 


上記は、高校政治経済辺りでも習う、経済の常識だ。

 


筆者が考えたいのは、「会社、特に株式会社における仕事の時間」の本質的な意味合いなのだ。

会社員であれば、「収益を出せ、利益率を高めろ、効率を上げろ」といったお題目、あるいはスローガンを浴びせられるのは普通だ。

 


問いたいのは、それは「何のためか」、「どこからきて、どこに向かうのか」、その上で、「働いている人たちは、何・どこに向かって働いているのか」ということだ。

「仕事の時間」というのは、それらの本質的な問いに対する答えから規定される、と考えていい筈である。

 


自分が学生時代に、とある大手の販売チェーン(本部直営店)のアルバイトをしていた時、月末に棚卸の作業があるのだが、マニュアルが整備されていて、上役の子が、「棚卸の意義」というのをマニュアルに沿って説明してくれたことがある。

どんな文言を使っていたかは記憶がないが、「会計上、財務諸表の正確な数値を整備する上で不可欠」と、「株主『様』のため」である、という説明を聞いて、当時は感心するより、「俺は見たことのない『株主』のためなんぞに働いてねーし」と反感を持った覚えがある。

が、当然だが、「正確」なのは、そのマニュアルの説明のほうである。

当時の自分は、「棚卸」という自分の仕事の意味合いを理解できる水準にはなかった、というべきだろう。

 


その店は既に閉店してしまったのだが、「売上、売上」と結構うるさい店だった。

自分は「意識低い系」だったので、「うっせーな、こっちはバイト代さえもらえりゃいいんだよ。あとはそれなりに楽しく働ければ」程度の意識しかない。

という訳で、企業活動全体の中に、自らの仕事を位置付けるといった視点は、働いている間は持てなかったし、持とうとも思わなかった。

そこで就職しようとも、キャリアアップを目指そうとも思わなかったから、その必要性もなかったとみてよい。

 


やや長いエピソード引用となったが、「仕事」の、「誰のため(目的)」と、「内容」、その「遂行者(オペレーター)」が、見事に分かれている、という事象を紹介したかったのだ。

業務整備された組織というのは、「誰の、何のため」ということが、「遂行者」には必ずしも理解できなくとも、「やり方の教育」さえ成されていれば回っていくものだ。

日本も厳しい社会経済環境になったものの、そうした認識のサラリーマンも、依然として存在するだろう。

 


ゼロ年代ホリエモンブームの時期には、「会社は誰のものか?」という社会的問題提起がなされ、幅広く議論がなされた。

「株式会社の時間」というのは、100%、「株主の利益のため」に回っている(少なくとも本来、そうでなければならぬ)。

法制度的なルール面、資本主義システムの原理面からは、そのように回答せざるを得ない。

だが、当時の日本社会では、「会社はステークホルダー全体のもの」といった回答をしたがる人々も少なからずいた。

これは、戦後日本が「官製(お上、官僚のつくった)通商産業国家」だったことと、技術者圧倒的優位の経営構造(ものづくり=2次産業)、有力企業やグループによる株式持ち合いのもたれ合い構造といった、日本独特の不透明な資本・経営・執行構造から来るものだった、と捉えられる。

そして、今なお、その残滓はそこここに遺っており、時に大小の様々なスキャンダルの形で噴出する。

 


次に、企業活動の「利益」というのは、どこから来ているのか?ということだ。

「産業」というのは、「自然」と直接接触する「1次産業」(農林水産業・鉱業)から出発した。

その場合、「利益」の大元は、「自然」である。

「自然」から持ってきた「原料」(の生産)が、企業活動の源泉となっている。

 


しかし現代の文明というのは、基本的には「3次産業(サービス業)」が基調であり、なおかつ21世紀は、「マネーの情報化」により、「おカネそのものの流動性が極大化」された社会、と捉えることが出来る。

そうなった場合、「利益」はどこから来るようになるのか?ということだ。

「おカネそのものの流動性が極大化」する一方で、「先進国」では生活が豊かで便利になり、「不足しているもの」はなくなった。

テクノロジーを駆使して、(今までになかった)「新しいサービス」を「付加価値」として提供することが、「利益」の源泉になった社会となっている。

そこでは、そうした新たな「サービス」そのものも、新陳代謝の激しい流動性の高さを特色としている。

 


戦後日本では、「会社に骨を埋めて」といった価値観が可能だった時代や社会が存在しただろうが、現代文明は変質している。

「仕事」を果たす先の「永続性」(少なくとも、「自分一個人が生きる、または働く間」)の保障がないのである。

その前提の上で、「仕事」とか、「働き方」の選択や構想を行う必要がある。

 


原理面の説明が随分長くなってしまった。

「資本の投下された時間」では、「株主の利益」のために働かなくてはならない。

それは「資本主義」の経済社会では自明だ。

問題は、それに対して、自分がどう処したいのか?ということだ。

 


「仕事」には、多義的な意味合いがある。

ここでは仮に、「その時々の、中期的な人生プランに積み重ねるキャリア」の意味合いに即して考える。

「人生の時間」と関わってくるからだ。

(個人=働き手にとっての)「仕事」は、業務内容そのものが最終的には規定するものの、環境面では「サービス内容×経営体」が決め手となるのではないか、と考える。

「利益の伸び(率)、その可能性」という点では、「サービス(内容)」と、それを運営する「企業体」の、「その先の潜在性=成長性」に規定される、という意味である。

 


就職先・転職先を探すとき、様々な条件を顧慮して仕事、あるいは会社を探すだろうが、上記は重要条件となることは言うまでもない。

その見極めがつき、(その時々の)自分と合っている会社・人・組織とマッチしフィットした人は、幸福かつ順調なキャリアや人生を歩めるが、そうでない人は苦しんだり、また「不法環境」「不良な会社や人(諸ハラスメント等)」で傷つきながら歩むことになる筈だ。

 


「収益が上がる」というのは、「市場、社会、人々からニーズのある」確かな証であり、また自分たちの会社が存在し、仕事をしている証拠ということである。

(会計操作や不法行為をしていない限り)

 


一般論が随分と長くなったが、どうしても必要な部分だった。

自分にとって重要なのは、「自分自身の、知=時間のハンドリング(の自由)」と、「自分にとってのお金の位置づけ」という点だった。

 


自分が苦しんだのは、「お金」というものに対して、全くといっていいほど「個人的な興味」が持てなかったことだ。

自分個人として、あるいは生活や人生面で、「お金がたくさんあったら」という願望とか欲求は、どうしても持てない、あるいは無縁だった。

一方で、「数値として」、即ち「知的関心」としては別だ。

じわじわと少しずつ時間をかけて勉強しながらではあるが、ずーーっと「知的対象としては」「お金」というものに興味を持ち続けてきたし、今なおそうだ。

そして、そうした関心や探究があるからこそ、今こうした記事を書いてもいる。

 


突破口になったのは、自分としての事業構想面が固まってきてからのことだ。

そこでは、「自分個人として」ではなく、「事業面として」「おカネ=資本」の必要性がどうしても生じるからだ。

それで、ようやく、「自分の時間」を、「未来に向かって」「企投」できるようになった。

 


そして次が、「自分の時間のハンドリングの自由」ということだ。

では、ここから先、事業進行に当たって、どういう時間にすべきか?ということである。

そこでようやく、冒頭からの話題に立ち戻る。

「株主の利益のための時間」にしたいか・できるか?ということだ。

答えは「否」である。時期・フェーズによって状況は変わる、という条件付きではあるが。

 


なぜか。

自分の資本は、「知」しかないということと、そこにいかなる「ヒモ」もついてはならない、という大原則が出発点となるからだ。

目先の収益のためのハイエナにたかられていては、「仕事」そのものが成り立たなくなる。

事業面では、先だって大掛かりな資本を要しない、ということもあるが。

 


もう一つは、少なくとも冒頭(スタートアップ)段階では、「投資家」に説明したい・できる何もないな、ということだ。

展望やビジョンがない、というのでなく、向こうには理解できないだろう、ということだ。

彼らが知的に理解できない、ということもそうだし、コンセプトが理解できない(あるいは合わない)という面もある。

 

自分はそもそも、「プレゼン」という営みそのものが、さほど好きではない。

正確に言うと、その「プレゼンという思想」(の横柄さ)が嫌いなのだ。

プレゼンそのものは、自分でやるのも、人のを見るのも別に嫌いという訳ではない。

現代社会では、大なり小なり不可欠な仕事であることも間違いない。

 


特に腹立たしいのは、「ビジコン(ピッチ)」というメディアとか、「1分でやりたいことを説明せよ」とかの「思想」である。

「ビジコン」というものには、自分も大きくではないが、微かに関与したこともある。

それゆえ、馴染みはある。

「なんで貴様らごときのために、こっちのアイデアを、しかも凝縮して説明しないと行けねーんだよ?しかも理解できないでしょ」という訳だ。

気づいたのは、自分の事業は、「大衆投資家」向けでも「大衆」向けでもないな、ということなのだ。

自分の事業には、(大衆に向けた)プレゼンも、ビジコンも不要だし、合わないのである。

 


と言って、無論、今後も全く「投資」とか「投資家」が不要だろう、とは見ていない。

「部分ファイナンス」においては、つまり、自分の事業を部分的に切り出して、「共同運営」的な枠組みでは投資を仰ぐこともあろう、とは考えている。

しかし、それも相当先の話だ。

「資本」そのものが必要というよりは、「外部の目」、ウォッチやモニタリングが必要になるフェーズでは、率先してそれを求めに行くだろう。

 

自分の事業は、完全に0から考えたものだからよくわかるのだが、「事業がカネを稼いでくれる」ようになるまでには、恐ろしく時間がかかる。

人間の子どものようなもので、育てるのにともかく手間がかかるのだ。

 

日本のVC市場も、米国ほどではないが、成熟してきた面もある。

(もっとも、本場米国のほうが「融解」しつつある状況なのかもしれないが)

投資家にも色々な種類があって、「シード」期から出資してくれるエンジェル投資家のような存在もこの10年ほどで見られるようになった。

だから、皆が皆、全く信用できない存在、と見ている訳でもない。

 

「出資・投資」というのは、「企業家と、(資本を通じた)投資家との対話・コミュニケーション」と考えている。

が、共通目的は、様々なきれいごとで飾ったとしても、本質は、「当該事業で最終的に収益を上げること」となる。

「相手への信用の有無」というより、「0から生み出し、育て上げた事業モデルに、途中から参加され云々されることへの不快感」と整理できるだろう。

 

VC市場の成熟に伴い、「投資されてはみたけれど」とでもいうべき、「起業家側から見た、VC投資受け入れの失敗学」とでもいうべきものも、散見されるようになった。

起業家の側からは、「上場」にばかり尻を叩かれる投資家圧力への違和感があったという。

VC市場が貧弱・未発達の状況では、投資家の側に、「ゴール=上場」しか設定できなかったとしてもやむなかったろうな、というのが個人的な感想となる。

それで苦労した起業家たちは気の毒だったとは思うが。

 

自分は、ずっと昔、学生時代の時点で、「投資家」という存在への感触というものを概ね掴んでいたから、「まず、簡単に付き合うようにはならないだろうな」との直観を得ていた。

「失敗」というものに、少しずつ寛容度を高めつつある日本社会のようだが、現状では、「信用」は禁物だろう。

 

「知的活動の自由」は、「時間の自由」と深い結合関係にある。

「おカネ」は、必ずしも、「自分の時間」を「自由」にするとは限らない。

「資本」というのは、自分の活動に一定のタガを嵌めることを意味する。

一方で、市場に対して付加価値を生み出しに行くとき、大小必ず必要にはなってくる。

が、その時の「時間の自由」との兼ね合いは、「自分だけで」決めに行くべきものだ。

 

100%、というより1000%、いや10000%かあるいはそれ以上、「自分の知的生産物を、完全に市場にオープン化できる」その保証を自ら行える体制がつくられて初めて、投資家との対話を、真剣に考えるようになるだろう。

だが、たぶん当分は要らない。事業規模面で考えても、何らかの、どこかしらとのコラボ程度の枠組みで十分と言えるからだ。

か、「自分のほうから投資・出資する」のが先か、あるいは何らかのファンド創出から始まるだろうか。