時間の「意味」

えらく哲学的なタイトルになってしまったが、論じたいのは純粋な「実務的」(?)な内容だ。

所定の労働や作業的な中身であると、「時給換算で〇〇円」と弾き出されるのはリーマン的習性の一つかもしれない。
 
自分の場合、そうした換算をすることがほぼ、ない(あるいはできないことが多い)。
「お金ではない」という価値観を持っているのでは無論なく、単にお金が発生してない「趣味(かっこよく言えば『クリエイティブ』?)」の領域に留まるからだ。
無論、ゆくゆくは、という期待ないし見通しがあるから続けているし続けてこれている、に過ぎないが。
 
「お金」が発生しているほうが、むしろ「ラク」な面もあると考えられる部分もある。
良くも悪くも、「社会的責任」が発生しているからだ。
内容如何にかかわらず、請け負っている内容、その「責任」は四の五の言わずに果たさねばならない。
「(やらねばならぬことを)考える余地がない」というのは、キツイ一方で、「考えなくても良い」という点ではむしろラクである。
 
「人は自由の刑に処せられている」というのは、確かサルトルだったと思うが、印象に残る言葉だ。
自分の場合は、サルトルの受け止めとは恐らくやや異なる感覚で、「自由」というものの「濃度」をぎゅっと凝縮した形で委ねられている、と感じている。
これも「実存哲学」的な言い方になるかもしれないが、「今」どう過ごすかという「時間」は、「未来」へと「投射」(かっこよく言うと「企投」)されるものだ。
 
「自由」のハンドリングを得ている、と自らが実感するのは、「現在」-「未来」の「双方の操作性」を、手にしている(=その能力がある、またはそう感じる)からだ。
しかし、そうであればあるほど、「現在の時間を、どこにどう遣う?」を極限まで考え抜く必要が生ずる。
「現在-未来の双方の操作性」と一口に言っても、これがまた容易ならぬものだ。
 
「〇〇のエキスパートになる!!」という、明確な「専門家(プロフェッショナル)」になることを目標とした場合は、その対象領域やテーマが既に明確な場合は、「トコトン突き詰める」ことを追求しやすい面もある。
しかし、それがまだ見えてなかったり、または特定テーマのエキスパートを目指せず、「領域横断型のジェネラリスト」型であると、カバー範囲が複数に拡散し、必然的に「自分が目指すべき像、何を成すべきか」も、自ずと拡散していく傾向が生じる。
すると、「今なすべき課題やその目標」と、「目指すべき像や将来」両方が、拡散しぼやけたものとなり、フワフワと手応えの感じにくいものとなっていくからだ。
(仕事やポジションを決める権限が自分にない場合は、猶更である)
 
したがって、その場合、次の困難は、「複数の可能な未来のシミュレーション」に随った「未来」に即して「現在(取り組むべき課題と目標)」を定める、ということだ。
VUCAという言葉が用いられるようになったが、「不確実性」というものが非常に強まった世界では、「未来のシミュレーション」が容易ではなかったり、想定外のリスクが生じた場合、全く無に帰してしまう場合も少なくない。
 
「自由(な時間)」の難しさというのは、まさに「投資」の難しさであると言っていいと思う。
自分としては、「ある未来Aの実現にベット(あるいは『企投』)」するつもりで、「現在取り組むべき課題と目標B」を設定したが、想定外の事態Cが生じたため、取り組んできたBは殆どムダになってしまう(あるいは途中で中断するなど)、という「リスク」が常に往々にして存在するからだ。
人が世に生きる限りは、そうしたリスクから逃れて生きることは不可能である。
 
が、「リスク」を怖れて、現在何もしない、やらない、ということも(不可能ではないが)また極端な選択肢となる。
完全な無為=0となってしまい、何も遺らなくなってしまうからだ。
そのために、リスクを恐れず「決断=行動」が求められるわけだ。
 
「『今』何をやるべきか?」という判断、その戦略を構築する部分では、「選択と集中」だけでなく、同時に「リスク分散」、そのための「ポートフォリオ分散」(の力学)が求められることになる。
今自分が実感している、「自由」の本質というのは、上述のような部分だ。
 
能力やリソースのスペックが高まれば、それに随って「自由」の範囲やレベルも上がっていくものだろうか?
それとも次第に「守るもの」も増えて、むしろ「不自由」になっていくのか?
これからの「旅」はそれを確かめに行く行程となろう。