「特化しろ」という横柄な思想には従わない

現代ではマーケティングを超えて、人生論・社会論の一般論として、「特化しろ、絞り込め、強みを作れ」ということが広く言われ、一種の規範性、というか能力の有力な判断基準の一つとして流通するようになった観がある。

自分にとっても、それらは学生時代から繰り返し言われてきた言葉だ。

実際、自分の強みというのはある程度自己理解したうえで、それを伸ばしてきて今がある。

 

自分の場合の特色は、とにかく「ジェネラリスト型」であり、関心も能力も総合的で広範である。

「狭いテーマに向かって掘っていく」というのは苦手というのではないが、それで「強みを作る」というのには違和感を持ち続けてきた。

 

無論、何かの強みがなければ、世で生き残っていけないのは事実だから、大人になってからも、その時々に応じて、必要とされる能力を身に付けはしてくる。

ただ、それでどれかの能力・スキルの「スペシャリスト」になろうとは思わなかったし、そういう途は「違うな」と思い、現実的な選択肢としては取り除いていった。

 

不快さをぼんやり感じていたのは、「特化しろ」というメッセージが、正論めいて見えはしたものの、どうも自分のような「ジェネラリスト型」の特質を軽視ないし無視しているように見えてならなかったからだ。

あと、当たり前のことを連呼されすぎ、次第に「うるせーな、言われなくても知ってるわ!」としつこいお説教のように煩くなってくる。

ホリエモンが「多動力」を著す前の時代)

 

もう一つは、「本当に『特化しろ』というのは正しいのか?」というあまり他の人では抱かないであろう疑問が、モヤモヤと自分の心の内にわだかまっていった、ということだ。

確かに、世のあらゆるビジネス・産業というのは「特化する」ことによって生き残ってきたものしかない、といっても過言ではない。

その歴史的現実も、また既存のマーケティング手法自体も無論認めてはいる。

「しかし、本当にそれだけなのか?」ということなのだ。

 

自分の心の中にわだかまっていったモヤモヤというのは、今となっては、極めて本質的な疑問だった。

「今ある強みにもとづくSWOT分析」を起点に展開するマーケティングの理論や方法というのは、(部分的には正しかったり共通するところがあっても)そのフレーミングや立ち位置というのが、自分自身の目指す方向性と全く異なっていたからなのだ。

つまり、「既存のマーケティング理論(の限界性)」に対する、本質的な疑問が生じていたのだった。

 

とはいっても、「じゃあどうする・どうしたい?一体俺は何を目指している?」という代替案や理論がすぐ準備できる筈もないし、第一、どんなポジションなのかすらその時点では分からない。

しかし、今来た地点・そしてこれから目指す地平は、やはりかなりの特異性を持っていると思わざるを得ない。

といって、「汎用性が利かない」ことは全然なくて、その手の理論化・方法論化が、これまでは整備されてこなかった、というに過ぎないとも言える。

 

先ほど触れた「不快感」の正体というのは、

・「貴様に俺や俺のアイデアの何が分かんだよ?」という無用の容喙や無理解への反発

・「無意味な特化」は、「結果的に時間を無駄にする」(=変に実行に移すと失敗や消耗によるロスが大きくなる)だろうという仮説を持っていたこと

だったと整理し得る。

 

「強み」は当然あるのだが、それは「特化しろ」という横柄極まりない、既存のマーケティング理論のメッセージに随って形成してきたものではない、ということなのだ。

自分が気づいた、既存のマーケティング理論の弱点というのは、「今ある組織やリソース」を活用することにはつながっても、「クリエイティビティ(創造性)」の積極的推進力としては働きにくくなる陥穽がある、ということだったのだ。

 

マーケティング論については、引き続き、また改めて論じていきたい。