学生時代は、「マーケティング」という方法論自体は理解できても、「思想」としては受け止められなかったような気がしている。
自分の志向性として、「社会全体」を捉えたい、という知的衝動が先行していたため、「市場・社会への局所的アプローチ」を事とする「マーケティング」というのは、それにそぐわないと感じていたのだ。
というより、まだ、自分自身で、「市場・社会にどうアプローチしたいのか?」という方法論や武器そのものを持たない以上、「マーケティング」という方法論を与えられても活用のしようがなかった、というべきだろう。
(また、データに関する思想や環境も、依然発達途上の時代でもあった)
また、「マーケティング」という、既存の理論やツールとして確立された方法論に拠らずとも、自分個人の直観に頼りつつカバー出来た、という部分もある。
つまり、「行動」が、「マーケティング(リサーチ)」や、「営業」をカバーできていた、アナログな牧歌的な時代だった、と見なせる。
その部分の有効性は依然残存している、というのが個人的な見方でもあるのだが。
次に、「マーケティング」の持つ、「時間的射程」の問題がある。
そこも、武器がない以上、当然見極めはつく状況ではなかった。
「マーケティング」というのは、「社会全体」を見据えるのではなく、逆に「部分に部分に」と切り分けていくこと(=微分化)に本質がある。
では、「武器が出来たから」「マーケティング」という思想を受容できるようになったのだろうか?
そうした捉え方では不十分、またはズレている。
「マーケティング」というのは、「自分(自社、またそのサービス)の、市場・社会への切り込み方の定義づけ」と言い換えても良かろう。
自分が片方で迷いがあったのは、「自分を、簡単に市場に広く開きたくない」という「感情」だったのだ。
これまた、「マーケティング」に反するような指向とは言えないか。
元来、「マーケティング」と密接にかかわる、「仮説形成・検証」とか、「シナリオ構築」自体は好きだし、得意でもある。
ただ、それを、「(自分に必要な)マーケティングとどう結合するのか?」の答えを見いだせていなかったのだ。
これは、生成AI環境が現れたことで、急に解決に向かった、と捉えられる。
足りてなかったのは、これまたアナログな言い方で自分でも嫌悪感を覚えるのだが、「人生経験×人間観察」である。
マーケティングは、確かにデータ解析・分析などを基に行うことが可能だが、相手にしているのは、結局は「(生身の)人」だ。
自分のこさえる「シナリオ」とか「仮説」というのは、逆説的だが、あまりに「AI」的=「数学」的・「工学」的だったのだ。
順序が変だ、とは自分でも思う。
が、売りたいモノが「数学・工学」で、まずはそっちを極めねばならないから、こうなった、のか。
「人・組織の抱える問題性、またその状況」を、非常に冷静に見つめられるだけの素材が十分に備わった、と捉えることができる。
「(組織・人の歩んだ)人生行路×摂取経験・コンテンツ」というものを、時点で輪切りにして捉えられるようになったし、それに面白みも感じられる。
この切り口には、「人(個人)」だけでなく、「組織」や、「組織内に働く個人」という入れ子構造も込みで捉えることが可能だ。広くは、「産業構造」というものも。
それゆえ、「社会全体を見る・見たい」という、自分自身の志向性へのこだわりが結実したと考えてよい。
「人を相手にする」嫌さを克服した、のか?
嫌だったというより、自分が持つ武器・強みに対して、どういう接点作りにすればいいのかが分からなかった。
自分の場合は、「誰にでもその強みを披露したい・知られたい」という訳ではない。
そのことを率直に認めた上で、「では、どこに・どうオープンにすればいいのか・出来るのか?」という工夫こそが、自分に必要かつ特有のマーケティングなのだ、というのが、独自に見出した解答だったのだ。